( 2005年3月)今回取り上げたのは

「小説家」116号

2005年3月刊
東京都
○隈部京子「浚いの風」ともに配偶者との不幸な離別のあと、同棲するようになった六十代の男女の日常生活。 ふたりはそれぞれの家を持っているから、一週間おきに相手の家に行って過ごす。そこでは親しい同年配の人たちが 集いをもつ。会食をし、ゲームをして遊び、あるいは古典を読みながら過ごす。老後の幸福の理想的な姿とみれば、 一種のメルヘンとして読める。良き伴侶、良き友との幸せな日々。しかしこの女主人公にはまだ、 施設にあずかってもらっている老人性痴呆症の母がいる。つらい過去もある。それらをゆったりと、 十分な言葉を使って描き出している。
○山田直堯「宿雨」白川郷に合掌造りの屋根の葺き替えのテレビ映像を取りに行くディレクターのぼくとカメラマンの彼。 二人は若い頃、同じ部屋で一緒に暮らしたことがある。彼は苦労して有名カメラマンの仲間入りをし、ぼくは大学の映画科を出て プロダクションを持っている。時々一緒に仕事をするうちに、彼のスタジオで知り合ったモデルの道代と親しくなるのだが、 彼女が彼の恋人だったことに気づかなかった。彼の方も道代とぼくの関係を、今度の白川郷行きの朝初めて知った。当然 二人の取材旅行はぎくしゃくしたものとなる。不思議な魅力を持つ道代、屈折した彼のぼくに対する友情がくっきりと 描き出されている。
○関谷雄孝「牛込矢来下お釈迦様」ほとんど一人の力で二人の息子を医者に育てた母親は、いま九十六歳。 このごろしばしば体調不良を訴えてくる。そのたびに外科医である次男の私は呼び出されて、母のところに行かなければならない。 長男がわりに早く亡くなって、いまは次男の私だけを頼りにしたがる母だが、七十三歳の私はそんな母との距離をどう維持したら よいのか、しばしば迷いながら、周りの人たちと話すときは「馴染の女」と母を呼ぶことで心理的な折り合いをつけている。 母は、絵を描くことでいま生き甲斐を見いだしていたのだが、入院後意欲が萎えかけている。このとき「牛込矢来下のお釈迦様」のお札を 貰ってくれば、すべてが良い方に向かうと信じる母は、私にお札をいただいてきてくれという。戦前、しばしばこのお札の御利益を 経験した母を勇気づけるために、私は苦労してお釈迦様のある寺を探し出す。母は再び生きる力と勇気を与えられ、絵の完成に 向かって筆をとることになるのだが、九十六歳の母の将来についての危惧はなに一つ減ってないのだった。

「カプリチオ」19号

2005年2月刊
東京都
○菊田均「文学に潜む政治」はこの号の特集。菊田均の講演を収録したもの。/生きにくさと文学/ 江藤淳との出会い/江藤淳の死と文学者の死/文学から人間が消えた/編集という権力/ 芥川賞という政治/退化してゆく作家たち/文壇妄想と二次会妄想というような内容。
○谷口葉子「ささやかな約束」実に達者な作品で、一気に最後まで引っ張っていく。ノンフィクションで賞を受けた 私は流行作家の伯父から電話を受ける。死を覚悟した伯父が自分の生涯の記録を甥である私に書かせようというのである。 私は引き受けるが、伯父には父の死を巡って恨みがある。というのは、事業を営んでいた父がせっぱつまって近作に訪れた伯父に 断られて自殺してしまったのだ。そうした過去を背負いながらも、強引な伯父の依頼を承知し伯父の半生まとめる ことになる。会社勤めの私は、勤めの合間に伯父を訪れ話を聞くうちに、読者もこの強烈な個性を持つ伯父の輪郭が分かってくる のだが、ちょうど伯父が文壇デビュー作を書いたところまで口述したところで、伯父は死んでしまう。伯父の作品の題名が この作品の題名になっている。
○宇佐美宏子「おっぱしょ」ぼけのきた母は私たち夫婦の寝室にやってきて、いつまでも自分の寝室に戻ろうとしない。 ようやく父の寝ている寝室間で連れて行くと、父はすでに事切れていた。父と母は阪神大震災のあと、長男の家から名古屋の 私の家にやってきて、十四日目のことである。昔気質の父の姿を生き生きとした筆遣いで回想しながら、父に対して自分は どうだったかと考える。「おっぱしょ」というのは、父がよく話してくれた民話だ。おっぱしょというのはおんぶしてくれと いう意味だ。美しい女からおっぱしょといわれ、女を背負って歩き出すと石に変わってしまう。ある日力士がこの妖怪を退治する。 力士は女を背負ったとたん投げ飛ばすと、大きな石が二つに割れていた。年取った父が長男や私の家に来て厄介になるとき、 父もだれかに背負って貰いたかった。「おっぱしょ」といいたかったのだと私は考える。そして石を二つに割ってしまったのは自分ではな いかと考える。高齢化社会における普遍的なテーマを提示した作品として読むこともできる。
○鳴沢高雄「性交館」これはしゃれた作品だ。題名からしてどんな作品かと注意をひかれるが、短い作品なので作品を 実際に読んでもらうほうがよい。「カプリチオ」の作品はホームページで読むことができる。

 

「小説家」115号

2005年2月刊
東京都
○刺賀秀子「母への手紙」幼い頃二人の幼子を両親の元に残したまま、男を追って島から出奔した 母への、娘からの手紙という形式で小説は展開する。といっても実際にはどこかで生きているのか、すでにこの 世にはいないのか分からないのだから、投函されることのない手紙である。主人公の私が出奔した母の年齢 をはるかに過ぎたいま、母が出奔するまでを克明にたどりながら「なぜ」と母に問いかけていく。 残された祖父、祖母、やがて戦争が終わり帰還した父たちのそれぞれ執念に捉えられた姿が、小さな島の 情景の中で美しく、しっかりと描かれている。
○類ちゑ子「帽子のつばは立っていた」題名も代わっているが、描かれている内容もかなり変わっている。高校を出て はじめは農業団体の組織の一員として就職するが、飽き足らないものを感じた主人公の勝は自動車修理工場を始める。先輩知人 の好意を受けて順調に事業は発展する。勤めていた頃親しくなった女性と約束通り結婚してまずは幸せをつかんだかに見え たが、信頼していた得意先の男にだまされて工場は倒産。妻も金のない夫に見切りをつけて出ていってしまう。 失意のさなかある日、子猫を拾う。人間の女に失望した勝は、この猫と暮らすことになるが、どうしたわけか猫と暮ら すようになってから再び幸運に恵まれることになる。偶然通りかかった肉屋に就職する。肉屋の老夫婦は、先年一人 息子を失い、現れた勝を息子のように信頼する。肉屋の仕事の一部をまかされ、やがて独立した主人公はとんとん 拍子に事業を拡大し、ついにこの世にはかつて存在しなかったような住宅を作り上げる。題名の「帽子のつば」というの は、彼の建てた超未来型の住宅の外壁の姿である。これが立っているときは、主が在宅ということになる。部下がやっ てきて、この家の主のことを近くの人に尋ねる。「中にいらっしゃいますよ。帽子のつばが立っているから」と答える。 実は中で主人公が死んでいるのである。
○秋月ひろ子「エイプリル シャワー」保険の代理店を経営する独身の女性の、現代的な割り切った生き方が示さ れている。しかし女が一人でこういう生き方を選ぶことは、とうぜん困難もつきまとう。体調の不良は子宮筋腫によると 診断された範子は入院する。当然仕事に支障を来すことになる。これまで、なんとなくお互いに好意をもちながら、 友情以上の関係に進めなかった里見が思いがけない提案をしてくる。明るい結末の中、女の幸せというものを考えさせる 小説だと思った。

( 2003年11月)今回取り上げたのは

「小説家」114号

2003年12月刊
東京都
○鈴木重生「歯を失う」これは一言で紹介するのはかなり骨が折れる。画家の吉良明はついに総入れ歯を作らなければ ならなくなった。それまで虫歯、歯槽膿漏、部分入れ歯までは、近所のかかりつけの歯科医で事足りていたが、総入れ歯を作る だんになって大きく目算が狂ってしまう。どうしても満足のいく歯ができない。さまざまなタイプの歯科医とのやり取りの中で 歯とは人間にとってなんなのかをつきつめていく。たくみなユーモアをもって語られる入れ歯体験、入れ歯談義はいつか人生そのもの ではないかと気づかされる。
○印内美和子「小さい訪問者たち」プールに歩きに来た珠子は、そこで事務の女の人にしきりに話しかけている女の子に会う。 女の子はプールに入りに来たのではなく、大人に遊んでもらいたくて来ているらしい。子のいない珠子は、ふと女の子にうちに遊びに 来ない、と声をかける。知らないおばさんについて行っちゃいけないんだもんね、とこたえた女の子が知らないうちについてき ていた。子のいない珠子のところには、ときどきどこかの猫が遊びに来ている。きまぐれな猫の訪問を珠子は心待ちにしている。 そしていま人間の女の子がやってきた。子どもには、事情があり両親と離れて祖母の家に預けられている。珠子は女の子を手なず けることで大きな楽しみを手に入れるわけだが、猫も女の子も自分のものではない。ラストで、女の子と猫にうちの子になりな さいと話しかける姿が、珠子の屈折した心理をうまく浮かび上がらせている。
○漆原暁子「ララバイ イン ニューヨーク」なぎ子は娘の和歌とふたりでニューヨーク二きている。和歌はダウン症だが、 日本でマクドナルドで働いている。和歌が五年間働いたお金でいま旅行に来ている。和歌にはこの旅行の目的がある。本場 アメリカのマクドナルドを自分の目で「視察」したいこと。もうひとつは映画で見たラストシーンの舞台になったセントラル パークを見たいということだった。「視察」はどんなものになったろうか。セントラルパークは映画の感動のつづきを与えて くれたろうか。なぎ子の中にさまざまな思いが交錯しながら物語は進んでいく。

 

「カプリチオ」18号

2003年11月刊
東京都
○石井利秋「三月十日のたばこ」禁煙を始めたばかりの私は、禁煙を喜ぶ妻の態度が逆に不愉快である。その日久しぶり に家の近くで西原老人に会った。西原とは、彼が駅前の放置自転車の監視をやっていたとき知り合いになった。 間もなく、公園で西原に公園で出会ったとき、たばこをすすめられて、ふたりで吸った。 そのとき、西原は三月十日の東京大空襲で家族を失ったことを話してくれた。どうやら西原は毎年三月十日には、だれかに たばこをすすめて、失った家族の話をしたいらしい。久しぶりに会った西原は、見違えるほど老い衰えていたが、私が声を かけると「たばこないか」という。禁煙中でたばこは持ってないと答える。何日かして、西原が神社のベンチにいて、 たばこをすすめてくれる。禁煙中であるからと断る。西原はそれでもさりげなく何度もたばこをすすめてくるので、もらうだけは もらう。そして西原は三月十日を語り始める。西原にとって三月十日がいかなるものか。出来事そのものは理解できても西原 の心の中まで理解することはできないまま、私は禁煙を破って西原からたばこの火をもらう。
○塚田吉昭「せんねんやうなぎ」いつも奇妙な小説をみせてくれる塚田氏だが、今回はうなぎを使って読者をひきずりまわす。 後藤が来るはずだと妻がいうが、わたしの友人にはふたりの後藤がいて、どちらなのか分からない。寺の和尚と待って いると後藤の変わりに「せんねんや」からウナギが四人前届く。和尚、わたし、妻と後藤の分だと思うのだが、後藤は現れない。 後藤を待つ三人三様の後藤の記憶がかみ合わないまま、毎日ウナギだけが届くが後藤は現れない。
○斉藤勲「清流」かなりの長さの小説。書きたいことを全部盛り込んだ感じ。読み終わって強く心に残るのは、一人の男の 徹底した孤独。しかも自らに課した孤独の姿。かれは妻との短い結婚にピリオドをうつと、安定した生活は求めず、 半年働いたら半年は自由に暮らすという生活を続けている。そういう生活の中で同人雑誌に入り小説を書き始める。この主人公 の生活ぶりも自由勝手だが、小説の書き方も自由勝手だ。それでいて読後に痛烈に残る何かがある。

( 2003年7月)今回取り上げたのは

 

「小説家」113号

2003年8月刊
東京都
○関谷雄孝「西日の情景」作者がこのところ一貫して書き続けている戦中戦後。今回は東京大空襲の頃受験を目指していた少年の周囲の情景が鮮やかに描き出されている。空襲で一瞬にして消えた街。疎開、終戦の玉音放送。戦後東京に戻って、高円寺のアパートでの一人暮らし。そこで隣人になった米軍相手の売春婦の息子は、主人公よりいくつか年下だが、自分の父がゼロ戦に乗って戦死したことを誇りに思っている。売春婦の母は、主人公に自分は不発弾処理係の米兵と打ち合わせるために、ときどき会っているのだとみえみえの嘘をついている。気丈な主人公の母は、戦災で焼けた薬局を再開し商売を軌道に乗せるためにうごきまわっている。ある日尋ねてきた主人公の友人が、空襲で逃げる途中祖母を知らないうちに置き去りにしてしなせてしまったことを告白する。こうしたひとつひとつの挿話の積み上げが、全体としてあの時代をくっきりと浮かび上がらせ、あの時代がどんな時代だったのかを改めて思い出させ、あの時代を知らない人たちに伝えている。
○佐藤睦子「キャットテール」10ページに満たない短編。ある日の夕暮れ時、麻子はブーケを買った。それは赤い猫じゃらしに似た花が使われていたからだった。猫じゃらしのブーケには一つの苦い記憶があった。同期で入った同年のM子が、それと気づかないうちに先輩のKと婚約し結婚してしまう。Kはかねてから仕事の上では麻子を重んじる態度を見せていたし麻子自身もM子より自分の方が仕事をうまくこなしている自信があった。結婚式の日、麻子はM子からブーケを皆の前で贈られる。新婦のブーケをもらった人は、必ず良縁に巡りあえるのだといわれ、かえって麻子は反発を強めた。こんど買った猫じゃらしに似たブーケ、実は猫じゃらしではなくキャットテールという花だった。とんでもない思い違いに気づいた麻子は、ここ数年の自分のこだわりを捨てる決心をする。
○石井利秋「しし座流星群」房夫は内心ちょっと億劫に思いながら二十五年ぶりの中学校のクラス会に出席する。そこで花恵に再会する。房夫は二年前に離婚しているが、花恵も夫と死別していることを知る。房夫はあのころひそかに花恵に思いを寄せており、花恵もそのような気配だった。別の高校に入ってからも米の配達を口実にときどき花恵がやってきた。ある日しし座流星群を夜中に二人で見に行く約束をするが、雨ではたせなかったことなどを思い出している。クラス会のあと何日かして二人は花恵の住む町で会う。花恵は昨年しし座流星群を見たという。花恵もあのときのことを覚えていたことを知った房夫は、もう一度今年花恵と、しし座流星群を見ることができないだろうかと考える。

 

「カプリチオ」17号

2003年4月刊
東京都
○関谷雄孝「平成海軍落下傘部隊」主人公の医師はたまたま自宅の近くで自転車の男が車に追突されるのを目撃した。自転車の男は空中に投げ出されたがそのまま巧みな身のこなしで着地する。後日この男が医師の所に治療にくる。着地は成功したが、着地の衝撃で足を痛めていた。なぜあのようにうまく着地できたのかとの問いかけに、男は戦争中に海軍落下傘部隊の生き残りだったことを話す。やがて親しくなった医師は男から当時の落下傘部隊の悲惨な実情を聞く。そこに登場する三人の男たちはそれぞれ異なる職業をもって戦後を生き抜いてきたものの、いまだに当時の傷跡から自由になれないでいる。この三人の男たちのが、天使の刺青のある元ストリッパーを中心に行う戦友への鎮魂の儀式は、一見奇妙でありながら未だ癒されることのない彼らの傷の深さを物語っている。
○木井智草「青蜥蜴」男から屋上の物干場で突然話しかけられる。絵描きへの夢を突然の発病で失ったこの男は、病院の中のことを何でも嗅ぎつける。男は主人公の「私」が三日前に叔父と名乗って現れたかつて恋人大塚の誘いに乗って外出したことを見破っていた。大塚は十九のとき自殺をしようとして失敗した「私」を立ち直らせてくれ、いままた結婚生活に半ば行き詰まって病を得た「私」を励まして帰っていったものの、そのあとの「私」は逆に不眠をつのらせている。男はいう。「ねえアンタ、おれの絵のモデルになってもらえんだろうか、羅の着物を着た女のふくらはぎを、さっきの青蜥蜴がまっしぐらに、白い太股に向かって這い上がっていく。誰も描かなかった凄い絵が描けそうな気がしてきた」

 

 

「小説家」112号

2003年4月刊
東京都
○類ちゑ子「プラム畑のテリトリー」プラム畑のそばに住む「私」が長年飼ってきた犬が、「私」の腕の中で死んだ。そのあと、プラム畑に野良猫が姿を現すようになる。やがて気をゆるした猫は「私」から餌をもらうようになる。一方「私」は散歩の途中で子猫を拾ってくる。子猫にはきょうだいがいたが、もらって育ててくれていると思った「私」の幼なじみは、はじめから育てる気はなく「私」から受け取るとすぐ捨ててしまったことをあとで知る。一方プラム畑に現れる何匹かの野良猫、飼い猫、飼い猫のきょうだいの雌の野良猫。子猫とともに何か放しながら餌を食べる家族、身重の妻に与えるためにもっとくれとせがむ雄猫。雄同士の血まみれの勢力争いなど、さまざまな猫の生態がまるで人間の社会の縮図を見るように鮮やかに描かれている。そして最後に、人間のまいた毒餌で猫たちが死んでいくあたりは、人間の身勝手さを強烈に訴えてくる。猫を中心に、それを暖かく見守る「私」の視線が感動的であった。
○秋月ひろ子「切れた鎖」一人の男が病院で息を引きとった。死んだ男は、集まってきた家族を見ながら自分の人生を回顧する。死んだ男によって語られる彼の生涯はまことに波乱に富んでいる。最初の記憶はようやく物心ついた頃の関東大震災。しっかりものの祖母の死後重しがとれたように飲んだくれになって家計を省みなくなった父。まずしい少年時代。家族のために進学をあきらめて、板前奉公。戦後結婚。ようやく板前としてじりつしたものの娘の発病。貧しさはつづく。若い頃は親兄弟のために働き、その後は子供のために働き、俺の一生は他人のためだけにあるのか。もう嫌だ。そうは言っても女房子供を路頭に迷わせるようなこともできない。そう思いつつ、いつか父親のように飲んだくれていく。いま病を得て死んだ男はようやく肉親とのつながりという鎖を断ち切ることができたが、そのことが言いしれない寂しさにもつながっていた。
○刺賀秀子「八月」終戦から三年経った炭坑の事務所。外地で企業を経営していた父も、きびしい引き上げを体験したあと元気がない。伸子は大学進学をめざして勉強をしていたが、二次試験の前夜に父から進学をあきらめるよう言われる。あまり心にそまない炭坑事務所での勤務。そんなある日急に事務所が慌ただしさにつつまれ、伸子は同僚のさち子とGHQの軍人の接待に行くように言われる。恐れ躊躇いながら接待の席に出た二人は、思いがけなく紳士的な米軍人の前で歌をうたい、いつかほのぼのとした夢のような満足感を覚えて帰ってくる。翌日、別の軍人が会社に来た。今度の軍人はかなりきびしい。実はこの炭坑で働いている青年が、戦争中に捕虜を虐待したのではないかという疑いがかけられていた。青年は坑道から呼ばれるとそのまま釈明の機会もも与えられず、家族に会うことも許されないまま、ジープで連れ去られる。昨日米軍人の前で甘味な夢を見た自分はいま連れ去られていった青年に対して罪を犯したんだと思った。

 

 

( 2002年12月)今回取り上げたのは

「カプリチオ」16号

2003年1月刊
東京都
○宇佐美宏子「ストリッパー」三つの章に分かれている。「橋を渡ると」は第二次大戦最末期の七月。地方都市が片端から空襲を受けた年だが、主人公の瑠璃子という少女は四国徳島を焼け出されて、母とともに橋を渡ったところにある村に疎開する。川を渡ったところとは焼き場のあるところで、いつも人を焼く臭いが漂っている。そこは軍隊に行っている瑠璃子の父の部下の家だ。そこで同い年で焼き場の娘の小夜と友達になる。一度小夜の家に呼ばれていく。小夜は祖父と瑠璃子の前で裸で踊る。驚いてみていた瑠璃子のなかに不思議な気持ちが湧いてくる。自分が習っていた日本舞踊をこの場で裸で踊りたい。「パラダイス」こちらは主人公は「私」になっている。あるいは瑠璃子の成人した姿かもしれない。必ずしも仕合わせともみえない夫婦。ルナを生んだ時、やってきた夫の竜次に名前を付けてと頼むと「おまえが好きにつけたらいいさ、俺には関係ない」といわれる。竜次は流行の雑誌のスター映画の新人オーディションにも受かった男で、私が押し掛けて同棲した男だったが、賭け事にのめり込んで私がその尻ぬぐいをさせられる毎日になっている。銀座のクラブからやがて場末のストリップ小屋へと移っていく。妊娠した後も踊り続け、どうしても生みたくてルナを生んだ。竜次はルナの出生届と婚姻届をもって役場に行ったきり帰ってこない。「刺青心中」は夜が明けようとする時、ベンツに乗って「私」は警察に呼ばれてある男の遺体を確認に行く。その男とは六年間生活を共にし二十数年前に別れてそれっきりの間柄だ。あるいはこの男は「パラダイス」の竜次のようでもある。車ごと海に飛び込んだ男は裸だった。男の足の付け根に緋牡丹の刺青があった。同じ場所に私も同じ刺青をして舞台に立っていたことがあった。きっと男はこれを私に見せるために衣服を脱いで飛び込んだのだと「私」は考える。

 

 

「小説家」111号

2002年12月刊
発行所国分寺市
○印内美和子「泣く子」公営プールで事務員をしているわたしは、三つくらいの男の子に特別関心がある。このくらいの男の子はぽちゃぽちゃと太っている方がいいと考えている。ある日、三つになる男の子が姉と一緒に父親に連れてこられるが、どうしてもプールに入らない。父と姉は男の子を残したままプールに行ってしまう。取り残された男の子はなぜか大泣きをして泣きやまない。父親はいつものことだからと、見にも来ない。わたしにも、かつて男の子がいたが、水の事故で亡くしている。あのときやはり息子は大泣きをした。「子供が異常に泣く時は、何かが起こる、または、起こりつつあるのだ。子供は何かの予兆のように泣く。」この子がその日いつの間にかいなくなる。わたしは自分の子が亡くなったときの情景と重ね合わせて考えている。この部分のひねりがまことに興味深かった。
○漆原暁子「土踏まず」妻のさえ子がこのごろフィットネス・クラブに熱心に通い始めしだいにすっきりした体型に変わっていく。夫の周介は贅肉をそぎおとした今のさえ子より、たっぷりした肉付きをしていた以前のさえ子を限りなく好んでいる。この前半部分の日常の描写は、独特のしゃれた雰囲気をただよわしている。やがてこの夫婦がかつて障害を持って生まれた子を亡くした経験が語られると、急にこの一見気楽な夫婦が背負っている重いものが前面に現れてくる。前半部分での、夫婦がそれぞれ違った好みをもったまま仲良く暮らしているさまは、実は子を亡くした後、苦しみを耐えるそれぞれの姿、それぞれの生き方でもあった。
○鈴木重生「空観先生百華翁」大学を定年で退いた正人は次第に故郷の鈴鹿へと思いが傾いていく。この日正人は、先祖が住んでいたあたりに仕事部屋を探しがてら、かねてから気に掛かっていた四代前の空観という人物をもう少し詳しく調べたいと思って、鈴鹿へ向かう。正人自身は最近の日本の政治的な空気が、気になってならない。それは、彼の少年時代の軍国主義華やかな時代の苦い思い出をよびさましている。その記憶はやがて自分の早くに死んだ父の生き方、さらに明治時代に政界で活躍した祖父へとさかのぼりながら、空観の生き方の探索へとつながっていく。これを読んだ人のなかに、これは四代にわたる正人一族の憂国の記録でもあるといった人がいたが、まさに四代にわたる知識人の時代に対する危機感、それにどう対処したかの記録にもなっている、一方小説的な興味はこの空観が、実は幕末の時代にあって殿様が思いをかけた女性と結ばれ、あやうくお手討ちをまぬがれたものの蟄居を余儀なくされる話。古文書からうかがわれる空観とこの女性との関わり、人間像。それと、もう一つはこの作者がときどき試みる現実と非現実の狭間の描写なども見逃せない。

 

 

 

( 2002年6月)今回取り上げたのは

「全作家」55号

20021年7月刊
発行所全国同人雑誌作家協会・草加市
○桂城和子「狐火」特別な筋があるわけではないが、ちょっと奇妙なところのある小説。主人公保子は知り合ったばかりの友人が、 あるマンションの一室でシャンソンのリサイタルをやるというので行ってみる。 そこにいる人物たちは、保子をはじめとして、みなどこか妙な雰囲気をもっていて、 このマンションのリサイタル会場という舞台とうまく合っている。この小説の見所は、 たぶんこの集まりの中にいる、奇妙な感覚を持った人物保子の細部を玩賞することだろう。 やがて保子の全容がはっきりしてくる。夫の突然の死によって、金と時間を手にした保子。 夫が生きていた頃、死んだ後。それぞれの生活が面白く書きわけられている。夫がいたときは酒。 死んだ後はたばこ。この酒からたばこへの変化は、夫の死で生活ががらりと変わってしまったことの、 比喩とも象徴ともとれる。なにか生活そのものが地につかないまま、漂っているような 保子の姿が「狐火」という題に集約されているようでもある。いつもながら達者な筆遣いである。

「小説家」109号

2002年4月刊
発行所国分寺市
この号は、「富士正晴全国同人雑誌賞」受賞記念号となっており、同人三人の小説と、 この雑誌の主催者であった故辻史郎の代表作の一つといわれる「すばらしき休日」を 本誌11号から再録している。またエッセー欄には受賞に当たっての感想などを 石井利秋、鈴木重生、印内美和子、隈部京子、結城五郎が載せている。
○関谷雄孝の「三つの鎮魂曲」は第二次大戦中の片隅で起こった、まことに不条理な 死をピックアップして見せている。戦後50年あまりになるが、その間世界のどこかで いつも戦闘があった。いまも続いていることをあらためて考えさせられた。
ひとつ目「熱い窪」はじめて敵前上陸に参加した兵士が、古参兵の戦場での知恵で、 猛烈な曲射砲の砲撃を巧みにかいくぐっていく。曲射砲は、必ず多少の誤差があって、 続けて同じ場所には落ちない。それで古参兵はいま曲射砲がえぐったばかりの熱い窪みから 窪みへと兵士を導いていくのだが、最後に古参兵が飛び込んだ熱い窪みから早く来いという手の合図 がある。飛び出そうとした瞬間、落ちるはずのない砲弾が古参兵を直撃し、いま呼んでいた 肘から先だけが、吹き上げる砂の壁の中をゆっくり昇って行くのが見えた。
「折れ曲がった直線」前方の的に向かって、勇敢にうち続ける兵士の尻に的の弾丸が当たる。 後ろから撃たれるとは何事だと、軍医からいわれ、上官からも責められるが兵士は絶対に的に尻を 向けた覚えはない。卑怯者の烙印を押されたまま、治療もそこそこに無理に前線に送られ、傷が悪化した兵士は 一人崩れ果てた孔子廟の中で死んでいく。実は彼が受けた銃弾は、 建物に当たって跳ね返った弾丸だった。
「狙撃兵」ジャングルの孤島に取り残された兵士35名。闘う目的もないまま、兵士たちの士気高揚と体力維持 のために、島の中を徘徊している。的のゴミ捨て場から廃棄されたシャツや下着、乾パン類を手に入れたりしている。 ある日、突然的の機関銃射撃を受けて戦友が死ぬ。ほかの兵たちも隠れる場所がない。 中に狙撃兵が一人いる。彼の狙撃の腕は抜群である。岩場に狙撃の場所をとり、機関銃を操る若い 敵兵に照準を合わせる。彼の狙撃銃には癖があって、照準鏡のなかで標的少しずらさなければならない。 いつものようにずらした照準鏡の中には、澄んだ蒼空になる。いつもそうして撃ってきたのに、 このときに限って、蒼空を見ながら引き金をひくという行動がとれない。敵に対する憎しみはない。 ただ、かれは自分の撃つべき対象を見ないと引き金が引けなくなっている。照準鏡をもどし、それでは当たるはずのない 薄っぺらな敵の顔に向かって引き金を引く。
○刺賀秀子「子供時代」これも三つの話が語られているが、内容は子供時代の体験。 いつもながら、この作者ならではの文章力を感じさせる。
1、は、小学一年生のときのクラスメートの死。鉄道自殺。が語られる。(クラスメートに、「丸木さんていう人、知ってる ?」って訊いたとしても、「そんな人知らないわ」と、おそらくだれもがいうだろう。なぜわたしは、いまでも丸木さんの 死を忘れないのだろう。七歳のほんの一時期しか会わなかった人なのに。それも特に仲良しというわけでも、忘れられない ようなことを一緒にやった覚えもないのにである。)
2,品がよく優美なクラスメートと帰りたいために、遠回りをする。クラスメートと別れた後知らない道ばたで、ロバを見る。 (行きものの哀しみをわたしがかんじはじめたのは、炎天下の路上で見た、荷役のロバがおこりだったのだろうか)
3,日本人離れした背の高い美しい転校生。なぜか担任教師からはつらく当たられる。この少女は資産家の家の離れに 暮らしている。母親はこの家の娘だが、親の許さぬ船乗りと結婚したため苦労しているらしい。どうやらクラスメートの 父親は外国人らしい。母親が海辺に住む乳母を訪ねるというので、ふたりでついていくのだが、母親は乳母の家には行かず、海の中へ入っていく、クラスメートが呼び戻そうとして 叫ぶ。母親はやがて濡れた裾を引きずって戻ってくる。このクラスメートからはいろいろ主人公の知らない 外国の文学書を見せてもらったりするのだが、一年たたずにこのクラスメートは転校してしまう。
○水野肇「影」この主人公は大学受験生の頃、父の営む山中の旅館に女子大生が教授に引率されてゼミの合宿にくる。 女子学生の中に、美和がいる。主人公の高校生は、この美和にひきつけられていくが、この女子大生には特異な 性癖があり、ここで美和の秘密を知ると同時に、美和と忘れられない関係を結ぶが、その夜美和は自殺してしまう。 高校生の方はそれ以来、美和の記憶から自由になれない。

( 2002年2月)今回取り上げたのは

「星座」69号

2002年3月刊
発行所東京都目黒区
○豊田一郎「性と愛」まことに即物的ともいうべき題名。テーマがこの題名に端的に表れ ている。性と愛、この似て非なるふたつは、考えてみれば不思議な関係にある。ここに描かれている のは、まったくタイプの違った三人の女である。会話もなく性に打ち込み、すめばさっさと帰って いく謎の女。絶世の美貌をほこり、男たちから鑚仰されることだけを求める別居中の妻。そして ひかえめに男につくそうとする妻の妹。三人の女を描き分けることで、男と女の不思議、性と愛の 微妙な食い違いをスリリングに提示している。

「じくうちU」13号

2002年1月刊
発行所横浜市
○大久保督子「やわらかな土の匂い」連載三回目、今回でこの長編小説は完結した。 この作品はいわば帰巣の物語というか、故郷回帰の物語というのか。故郷の村に一人で暮らす 老いた母。ちょっとずつ問題を抱えた夫、娘、息子が、やがてそれぞれの問題を解決して、 母の光江、語り手である主婦の麻子のいる田舎の家に集まっていく。ほのぼのとした幸せの予感が 伝わってくる。

「時空」19号

2001年12月刊
発行所横浜市
○草原克芳「チョコレート館」メルヘン風なタッチは、最近のこの作者の 特徴かもしれない。その意味で、この作品は読む楽しさを与えてくれるし、一気に読ませる力を 持っている。描かれている世界は、インターネットのホームページという、世間的にも現代の 流行の先端を行くもので、素人の作るホームページの抱える夢と現実を笑いと風刺とペーソスを こめてたっぷりと見せてくれている。この作品は「同人雑誌の作品」に転載してあります。

( 2001年10月)今回取り上げたのは

「小説家」108号

2001年12月刊
発行所国分寺市
○石井利秋「頭に棲む虫」妻と恋人に去られた小さなレストランの マスター。この頃、店の前を去っていった恋人に似た女がよく通り過ぎる。 その日も、女が通り過ぎるが確認はできない。閉店後一人で夕食をとって いると、女が店にやってくる。結婚して去ったはずの女が、男と別れて戻って きたと知って男は喜ぶが、そのとき分かれた妻から電話がかかってくる。 孤独、意志疎通の困難。
○印内美和子「七代」十以上離れている母方の従姉妹の死。従姉妹の名 は七代。葬儀にいく途中、ふと気づくと主人公の肩に七代の霊がいる。 主人公は幼い頃母を亡くした母を大切に心にしまってあるが、七代もまた 早くに母を亡くして叔母である主人公の母を慕っていた。父方の係累は多いが、 母方の係累はほとんどこの七代だけ。ふつうの勤め人の妻である主人公。 踊りと着物に執着し一見華

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